記録を残すこと
息子がスイミングに行ってる間に書いてます。
久しぶりにログインしました。
文章を最近書いてないな。昔の文章を久しぶりに読み返してみたら、ああいいなと思えた。
自分の気持ちを文字に起こした瞬間から、それはすでに自分の気持ちではないような感覚になることがいやで、ぜんぶ違う人が書いたような気持ちになるのがいやで、ブログから離れてたことも思い出した。
最近読んだ本の『往復書簡 ひとりになること 花をおくるよ』の滝口悠生さんが同じようなことを書いていらっしゃって、でもそんな気持ちになりながらも、うんうん考えながら、もがきながら書くことでしか書くことはできないというようなことを読んでから、また悩みながら書いてみたいなという気持ちになっていたのかも。
そんな難しく考えなくてええんや。こんな気持ちもあるしあんな気持ちもある。さっきこう思ったけど、次の瞬間にはああ思った。おもろい。それでいいんや。
あと、書かなくなったことのひとつに、記録することへのこわさというか、簡単に残せることでそのあたりのふわっとした多層な記憶がそれだけの記憶にすり替わってしまうような、そういういやらしさを感じてしまったんだと思う。
文章もだけど写真なんか特にそう。
視覚的にがつんとこんなことありましたよ、と残すことで「それは事実です!」みたいな記録になってしまうことが嫌なんだと思う。
もっと人は記憶はおぼろげでいいんじゃないかなって。
息子が幼い頃の写真をたくさん記録しておかなきゃと思ってがむしゃらに撮ってたけど、それにはものすごいつらさや悲しみ、さみしさみたいなものがひっついていて、写真を見るたびにそういうものも思い出されちゃう。
おばあちゃんに子育てはどんな感じだった?とかいたら、たいへんすぎて全部忘れたわ!!というような返事が返ってきて。
ああ、今の人は記録しすぎかもなと思ってしまったんだな。残しすぎるのも、記録した人(わたし)にとっても記録された人(息子)にとっても、良い面ばかりじゃないかもなって。
知らないでいることとか、おぼろげであることの良さってあるなと思ったんだわ。
それでも、また記録してしまった。
いいんだ、たのしいから。
書くことは、たのしい。
それにしても、滝口悠生さんの文章がとても好きだった。他の本も読んでみたくなった。あと行動や思考回路がうちの夫に似すぎてびっくりした。