ネガティブな気持ちに名前をつける①わたし編
わたしが日常の些細なことで落ち込んでいると、夫はよくこんなことを言ってなぐさめてくれる。
「そんなこと、大したことないから落ち込む必要なんてないよ。大丈夫」
夫は悪気があって言ってるわけじゃなくて、本当にわたしを心配して、声をかけてくれている。
でも私はこの言葉によくひっかかる。わたしは悲しむ必要があって落ち込んでいるわけじゃない。「誰かにあんなこと言ってしまった」とか、今さら言ったってどうしようもないようなことで落ち込む必要はないことも、よく分かる。でも、「落ち込んでしまう」の。これは自分の力ではどうすることもできない。この気持ちや感情を適切な形で成仏させてあげないと、わたしはこれからも無理して笑ったり喜んだりしなきゃいけない。テレビ見たりしてこの嫌な気持ちが薄れることはあるけど、それでもまた思い出したときにどよんとつらくなるのなら、ちょっと向き合わなきゃいけないんだと思う。
「感情の処理」についてわたしはよく考える。人によって、些細なことが気になる人とそうじゃない人がいる。何がちがうんだろうってよく考えていた。(このあたりは加藤諦三が教えてくれたよ)
わたしはもちろん前者の気になる方だ。かなり気にする。これでも10代~20代前半よりはかなりいろんなことを流せるようになった。くよくよ思い悩まなくてもよくなった。でも、たぶん同年代の人と比べるとまだまだ敏感に落ち込むほうだし体調が悪かったりするとその敏感さはより鋭くなって、ずっとビクビクしてしまうことがある。
でも、夫にきいてもらってると、自分の感情と向き合うことができたり気付きがあったりしてそれが気にならなくなることが増えた。「ああ、わたしはなんとなくムカつく~って思っていたけど、怒りだけじゃなかったな。わたしの頑張りを認めてもらいたかったのに認めてもらえなくて『悲しかった』し『悔しかった』んだな」ってことに気づけると、今までのモヤモヤやずーんとした落ち込みがすーっと軽くなる現象を何度も経験してきた。起きた事象は変わらないのに不思議だなと思ってた。
つまり、それは自分の感情の認知が甘かったり、感情の認識が少しずれてたのかもしれない。たいしたことないと思っていたことが自分の中ではなにかの理由で大したことだった。嬉しいと思っていたことは実はちょっと嫌だった。ちゃんとわかっていなかった。でも、その気持ちにぴったりくるような名前をつけたり理由や説明を探してあげることで、その感情の高ぶりが落ち着いて、いやな記憶が元の場所へおさまる感覚があった。
その機序は、この本が教えてくれた。これは本当に本当に出会えてよかった本。
ちゃんと泣ける子に育てよう 親には子どもの感情を育てる義務がある
- 作者: 大河原美以
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 2016/10/28
- メディア: Kindle版
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大人でも、自分の感情に対してちゃんとまっすぐ捉えて認識してあげられる人って、どれだけいるんだろうか。
「こうありたい」「こうあるべき」感情で、自分の感情を無視したり、ないがしろにしたりしてしまう人が多いんじゃないかな。
見て見ぬふりするのはまだしも、ぜんぜん気づいていない人も少なからずいると思う。
たとえば、大事にしていたコップが割れた。「たったそれだけじゃないか。大したことないから大丈夫」と思おうとする。「落ち込んだって仕方ない」と言い聞かせる。「あれはさほど大事じゃなかった」と自分の大事にしていた気持ちから目を背ける。そしてなにか気分転換をして、自分のとてもシンプルな「悲しかった」という気持ちを見つめてあげない。そしてそれは、小さな小さなしこりとして、心の奥底へ残るんだと思う。その感情は小さくなっても消えないんだと思う。消えづらいんだと思う。「あれは大事にしてたやつだった。落としてしまって悲しい。なんで手をすべらせてしまったんだろう。自分が嫌になる。悔しい」。
そうやって自分のありのままの気持ちを見つめる時間が、自分のネガティブな感情を処理するのに大事な工程なんだと思う。そうやって適切な順序を通ることで、その痛みは徐々に自然と癒えていくのだと思う。
小さな取るに足りない些細なことに見えるようなことも、その人にとっては大きな意味のあることなのかもしれない。でも「普通の人間はこんなことで悲しまない。悲しむ必要ない」と思おうとして、なんとか乗り切ろうとすることって少なくないんじゃないかな。
自分のの心の動き、そのままに、流れるままに動くままを見つけてあげる余裕がないんだと思う。それに些細なことが気になってしまう人は、気になるがままに気にしてたら生活できないよ。
わたしは、子どもの頃に「ネガティブな感情」について向き合ったり言語化して納得がいく説明をしてもらう機会がなかったんだと思う。だからネガティブな感情との付き合い方が下手なんだろうな。まず、あるがままの感情を知って、その感情に適切なことばをかけてやる。「悲しかったよね。認めてもらいたかったよね。だってあんなにがんばったもんね。今度折を見て、その頑張ったことを伝えてみようね」とか。そのときに「認めてもらえなくても当然だよ!仕事だもん!各々が粛々と仕事するだけなのに認めてほしいなんて幼稚なことで思い悩むんじゃない」と自分のありのままの感情を否定すると、またその感情が成仏せずぐるぐる思い悩む。もしくは忘れてしまうけれど、しこりとなって心のどこかに残る。
ネガティブな気持ちを成仏させる作業を、幼い頃に近くの大人がその役割をできると、子どもは自分のネガティブな感情への対処がひとりでも上手になり、次にそういった感情になったとしても前ほど落ち込まずにその感情を受け入れるようになれる。そして、いろんなことが気にならなくなって、些細なことにでも落ち込まずに生活できるようになる。そうやっていろんな段階を踏んで大人になっても、大人の社会のいろんなことをうまく流しながら生活できるくらいの鈍感さとか図太さを身に着けていくんだろう。ストレスに適応していくんだろう。
わたしは「ちゃんと泣ける子どもに育てよう」という本からそう理解した。
おとなになると、いろんな役割がいつのまにか望まずにも与えられる。社会人、妻、母、正社員、パートスタッフ、となりの奥さん。
そうすると、いろんな行動や対応が求められ、求められるものがどんどん複雑で高度なものになっていく。それがうまくいかないと、ネガティブな感情が生まれやすい。そうするとどんどん生きづらさを抱える。大人になるにつれてどんどん生きづらさが大きくなる人は、日々の些細なネガティブな感情の処理の仕方が下手で、どんどんと処理しきれないネガティブな感情が積もっていき、耐えきれなくなって爆発したり大きな落ち込みになったり、その果てには鬱になったりするのかもしれない。生きづらさをなんとかするためには、ネガティブな気持ちの処理の仕方を会得するのがひとつの鍵なんだと思う。
わたしはまだ、不慣れ。勉強中。すぐつまずく。でもやっとスタートラインにたてた。
今まではすぐ夫をつかまえて、この作業をやってもらっていた。でもそれはかなり負担をかけていた。わたしに思うような反応がないと怒ったり悲しんだりしてた。でも、ひとりでできるところまではひとりでやろう。この気持ちはわたしのものだ。わたししか知らない。わたしだけが知っている。そして向き合うのにひとりでつまずいたら、夫に協力してもらおう。
ネガティブな気持ちとうまくつきあえるようになれたら、もうすこしこの生きづらさが和らぐのかもしれない。ひとつの解決策が見えた気がした。それはわたしにとって大きな希望。
時間がかかるけど、がんばってみる。
そして、夫、息子のことも考えた。次につづきます。