まだできないのか、最初からできないのか
今日はバレーの練習後に、飲み会へ誘われました。
だけど、どうしても怖くて、誘ってくれた方々の気持ちを無下に断ってしまいました。
かなり露骨に、かなりキツく、狼狽しながら断ってしまった。
プレイ中やプレイの合間の会話なら、なんとか耐えられるんだけど、飲み会となると、途端にこわさが倍増する。なんでだろうか。
大勢の中に行くと、頭がうるさくなってしまって、うまく働かなくなるからかな。そういう醜態を、新しく知り合った人に見せたくないからかな。
昔からの友だちなら、人が多い場ではわたしがぐだぐだになって目が回ることを、もうすでに知ってるから、誘われたら半分くらいの頻度で参加できる。めっちゃ疲れるけど。
でもな。やっぱりな。親しくない人ばかりのところへ参加することは、理屈抜きにこわい。そういう感情を優先させた方がいいだろうと思うから、今となってもその判断に悔いはないん。だけど、断り方ってのをちゃんと考えなきゃいけないな。
それに、これから会社勤めをする時がきたなら、ふいに親しくない人たちから誘われる機会があるかもしれない。
だから、がんばって参加したかったのに。参加できるようになりたかったんだけど。
できなかった。
まだできない自分が情けなくなる。
まだだめなのか、と責めてしまう。
もしかすると、「まだ」というより、「最初から」なのかもしれない。
自分に期待しすぎなんだろか。
はやく家に帰って、おいしいごはんをつくって、それをゆっくりたべたい。
お腹すいた。
銭湯で働きはじめたよ
ここ数日、またうつのひどいのがきてた。
帰省やバレーやなんやかんやがいかんかったかもしれん。
でも、そのうつ野郎は昨日の朝、去りました。起きた瞬間に、「あれま!」と分かった。本当によかった!
波があることをすぐ忘れる。調子こいてバンバン活動的なことすると、次に来るうつの波の深さが大きくなる。
波はできるだけ、変動が少ないのがよい。
大きな活動ごとは、徐々に増やさねばいかんなと、当たり前のことだけど、そう思いました。
そう思った矢先に、アルバイトを始めました。今日から。ついに。アルバイト!!ぎゃあ。
いろいろ迷った結果、近くの銭湯で働くことにしました。
今日はまだ初日だったから、ずっと清掃してた。もくもくと。
お盆だから人が多くて、なんぼ髪の毛とってもとってもすぐ溜まる。床を拭いても拭いても、濡れる。めげる。
でも、そんな単純作業のが、いいなと思った。仕事量自体は結構多くて、水分とったりトイレに行く暇もないほどめまぐるしく動いてるんだけど、今のところたのしいなと思えてる。よかった。この感覚だいじ。男湯もたのしいし。
それから、今日わたしの指導担当をしてくれたスタッフさんが、とてもよい方だったことが幸いだった。丁寧に教えてくれるし、処世術みたいことも教えてもらえた。チャーミングな方。
スタッフさんにちょっと怖そうな重鎮おばちゃんがいるので、そこは少し不安だけど、がんばってみる。
そういや、今日は恋人は仕事の休憩中にプールで泳いでたそうな。自由だな。
こんな暑い日に泳いだら、さぞ気持ちいいだろうな。
明日もわたしは、こんな暑い日に湯けむりの中を、汗だくで風呂掃除をします。汗だかホコリだかなんだか分からなくてベトベトするけど、働いてるんだなという感じが分かりやすくて、いいなと思う。
オフィスワークより、性に合ってると思う。
何時間働いて、何円もらえるっていうお給料方式も、分かりやすくていい。
分かりやすいってすてき。
お給料は少ないけど、すでにもらってしまったので、これで傷病手当金の受給はおわり。その手続きを進めます。
もらえる額は、働いてるのに10万近く下がるのは大きな痛手。不安。
でも、傷病手当金をいただくことは、どこかで後ろめたい気持ちがあった。そのお金に、使いづらさを感じてた。
実際問題、これからどんどん金銭面的に余裕がなくなってきりきりまいになるんだろうけど、それとも向きあいます。向き合って、工夫して、無駄買いを減らしてかないかん。
不労所得、なくなります。
労働所得もらいます!
我が子を持つことについてこじらせてる
ごめんなさい、書きます。受け入れられないから書きなぐります。もしかしたら消すかもしれません。
めいっこに会いたい。
あんなにくたびれたのに。寝てくれたらほっとして、はあ、1人の時間がやっと持てたと思ったのに。泣き止んでくれない時は「くそ!」と思ったのに。
でも、めいっこはわたしを呼んでくれた。泣いて、抱きついて、抱っこしたら笑ってくれた。本気で必要としてくれた。
もちろんわたしじゃなくても、かまってくれる大人であればだれでもよかったんだと思う。だとしても、全力で求めてくれた。
今はめいっこと遠く離れて、わたしは一人でいる。恋人と一緒に住んでいるけど、日中は一人だし、恋人と一緒にいても、あんなに「わたしだけをみて!」という独占欲をもった愛情は持たれない。気楽な仲です。
それは、めいっこと10日間一緒に過ごす前の普段のわたしなら、居心地の良い距離だった。
でも、もうその頃の自分には、戻れなくなったのかもしれない。あんなにもわたしを求めてくれためいっこ恋人を、比較してしまう。恋人でも誰でもいいから、もっと必要とされたい、見える形で示してほしいと思うようになってしまった。
恋人と幼児であるめいっことは愛情表現がちがって当然なのに。愛情表現が物足りなくなった。全身で、ことばでも態度でも肌でも示してほしくなった。
さみしくなった。「抱っこ!」としがみついてほしい。わたしの胸元で眠ってほしい。起きたらわたしがいなくて泣いてほしい。さみしい。。
これは本当にこわい感情。自分で書いててひく。
わたしはいつの日か、我が子を抱ける日がきたらいいなと思ってた。まだ体調が不安定だし、今すぐにってわけでないけど、いつかは、、、と思ってた。恋人とも、二人の子どもをもてたらいいねと話してる。
でも、今のわたしのめいっこへの想いを考えたら、ぞっとした。めいっこがもし自分の子なら、わたしは我が子を、自分の愛されたい欲を満たすめの存在にしてしまうのではないか、と。
必要とされたいから、誰かの介助がないと生きていけない弱者を自ら産んで、自分なしでは生きていけない人間を製造しようとしてるのか?
幼児の間はまだいいとしても、子どもの自我が成長して、自分の思い通りに動かなかったり、自分を必要としなくなった時に、ちゃんと手放せるのか?我が子を自分に依存させて無意識にコントロールしようとする、今のわたしと母親の関係である「共依存」にさせてしまうのでは??
「ほら、あなた一人では何もできないでしょ。お母さんがついてないと」「あなたのためを思っていってるのよ」「わたしはあなたのために自分を犠牲にしてるのよ」「あなたを愛してるからよ」
それだけは避けたいと思ってた。
私はこの子を幸せにすることは出来ない。 - はなこのブログ。
はなこさんのような母親になりたいと思っていた。
(はてなブログには見本のような母親がたくさんいる。ロールモデルとしてはありがたいけどだめな自分と比較してつらい)
でも、すでにめいっこへの想いが、共依存関係への予備軍だという証拠だ。こんな想いを持ってるのでは、もうわたしはだめだ。だめだ。子どもなんてつくろうとしちゃいけない。授かりものだというのならば、避妊具なしのセックスは今までもこれからも、絶対あっちゃいけないんじゃないか。
こわい。可愛いはずの我が子に、わたしのさみしさを埋めてもらうために産んで世話をし、その行動理由や感情を「母性」とか「愛情」と自分で誤認してしまうことが恐ろしい。
もし我が子に「なんでわたしを産んだの?」ときかれたら、わたしはうまく答えられないと思った。
(よもちかさんがおっしゃるように、わたしも事故だと思ってる節がある。なのに産みたいってどう考えても矛盾してる。こわい)
我が子に興味本位でどうして?ときかれても答えに詰まってしまうところを、悲痛な表情で問われたら、わたしはつらくて体がもげてしまうかもしれない。
わたしが実の母親からもらった返事は、「可愛いから」だった。可愛いから産みたくなるもんやろ。でも子どもの可愛い時期はすぐ終わっちゃうから、次の子、次の子と産みたくなって3人産んだそうな。
母親が可愛がりたい対象としてわたしは産まれたのか。産んだら祖母にほったらかしにしといたくせに、産んだのは自分だからって今まで母親ヅラしてきたのか。小学生の頃にきいたことだけど、わたしは覚えている。
だから、この問いに対する返事って、子どもにとって、とても重要な意味を持つんじゃないかとわたしは思う。
「二人の愛情の証が欲しかった」
ちがう!
「二人が育児を通してさらなるステージへ成長するために?」
ちがう!
「いい家庭を築きたいから」
これは論点がずれてる気がする!
やっぱり、かわいいから、に尽きるのか?
ことばでは説明がつかない、よな。
わたしは、なぜ子どもがほしいのか。そもそも、子どもがほしいと思い始めたのは本当にこの1年以内だ。恋人と一緒に住みはじめて、この人となら…と思えたから。それと、めいっこが産まれて、めいっこに生かされた経験があるからだ。
大げさだと笑われるかもしれないけど、絶対に伝わらないと思うけど、でも今から思えば、やっぱりめいっこに生かされたとしか思えないんだ。
どうしても希死念慮にとりつかれて仕事辞めて実家に帰って、もう生きてられないと思った時に、姉が子どもを連れて実家にきてくれた。そのときはじめて産まれて3週間の赤ちゃんをみた。がんばってがんばってお乳をのんで、そのまま力尽きたように眠って、また起きたら泣いて、立派にちゃんとうんちもおしっこもして、またお乳をのむ。
その存在がなんだか尊すぎて、わたしこの子の成長を見続けたいからもう少し死なないでおこうと思った。母親から罵倒されても、妄想の声が止まらなくても、発狂しても、この子が大きくなっていくさまを、自分がどんな姿になってでもいいから見たいと思った。
いざ死のうと駅のホームへぐらりと体を傾けても、めいっこの泣く顔が思い出された。家族の顔でもなく、恋人の顔でもなく、めいっこの生きる姿だった。
ホームでわんわん泣いた。高いとこ登って遠くに見える地面を眺めるときも、やっぱりめいっこが浮かんで、死ぬに死ねなくて泣いた。こわかったし、ふがいないし、生きたかった。あんなふうに生きたいし、生きる姿が見てみたかった。
でも、やっぱりわたし自身が子どもをもつことはこわい。
同じ目に遭わせたくない。悲しい思いをさせたくない。
恋人からプロポーズを受けてもらえて、わたしの感情も穏やかな時期が続いたので、ああ、今このまま子どもが授かればいいなとつい最近まで思ってた。こじらせた「我が子をもつこと」についても、少しずつ落とし所を見つけてきたのかなと思ってた。で、実は生理が2週間遅れたから、もしかしたら避妊具に穴が開いてたということもあるかも!と思ってたんだけど、昨日生理きた。自分でも驚くほどがっかりした。
めいっこ育児の疲れと、信頼してたカウンセラーがいなくなった喪失感も相まって、わたしは現在進行形で「我が子をもつこと」についてこじらせてる。
なぜみなさんは、子どもを産んだんですか。なぜ産みたいんですか?
恋人は、それはこれからゆっくり考えよう。結論なんてないけど、二人でさがしてみよう、といってくれてます。わたしも、そうしてみようと思います。まず、わたしが元気になりたい。
自然に諦められるものなのか?まあいっか、産もうかと思える日がくるのか?こんな自分を受け入れて許せる日が来るのか?
追記
恋人は次のようなことを言ってくれた。