揉むことは祈り
久しぶりに揉んだら腕がいたい。
実家に帰ってたんだけど、まだ家の状況はあまりよろしくなくて、必死に揉んでた。
姉、母、父、祖母の背中、首、肩甲骨、腰をみんなで揉む。
これは昔からの習慣。習慣なのかなんなのか。ただの祈りの行為。
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家が徐々におかしくなったのは、誰が悪いわけでもなかった。泥沼化していたので誰もがどれだけがんばっても空回りして、状況は何ひとつよくならなかった。
何も解決せず苦しいままでなすすべがない状況のときに、わたしたちはお互いの体を揉んだ。マッサージというより、揉む、さする。わたしたちにできることはそれより他なかったと、今でも思う。
人は悲しいことや苦しいことが続くと、全身が痛くなる。不定愁訴。解剖学的にも病理的にはどこも悪くないんだけど、とにかくずっと続く背中や腰、肩や首、座骨神経などの痛み。痛みがさらに苦しみを生む。
状況や状態は施しようがなくても、わたしたちは揉む時間だけ楽になれたと思う。
それは揉む側にとっても揉まれる側にとっても。
揉むことで相手を労わり、償う。
揉んでもらうことで相手を許し、受け入れる。償うように、祈りを捧げるように、わたしたちはお互いを揉み、揉んでもらった。
そういった象徴的行為だった。
みんなが楽になりますように。少しでもつらさがおさまりますように。落ち着きますように。
さっきはごめんな。ひどいことしたな。しんどかったな。つらかったな。大丈夫だからな。揉んだりさすることしかできなくてごめんな。
揉むこと、揉まれること、それが救いだった。その時間が終わればまたつらい時間が始まるけど、揉みおわったら不思議と少しだけがんばろうと思えたりした。
混乱状態も、揉むことで鎮静化することもある。眠れないときには揉むことで眠れることもある。
揉むことしかできない。あなたにできることは何もない。ただ、一瞬でも楽になってほしい。
ひたすら2時間揉むことはざらだった。腕が棒のようになったけど、でも何もできない非力な自分を認めるより筋肉の痛みの方が我慢できた。
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今わたしは夫を揉み、夫に揉んでもらう。それは前のような悲壮感が漂う死に物狂いで懇願するような祈りではなく、淡い希望のような祈り。
少しでも疲れがとれて、明日がちょっとでもはつらつとした気分で過ごせますように。深い心地よい眠りが訪れますように。
揉むことは大なり小なり、尊い祈りの行為だと思う。
あけましておめでとうございます。